私と高円寺のことなど 第二回 外飲みの始めは屋台

私と高円寺のことなど・コクテイル書房狩野俊 高円寺

文・コクテイル書房 狩野俊


 東京で酒を呑み始めたころのことを書きます。外飲みの始めは屋台でした。蚕糸の森公園の横、青梅街道に面したあたりに、平日の21時を過ぎるとラーメンとタコ焼きの屋台が出ていました。タコ焼きは買っていくだけだけど、ラーメンの屋台では酒が呑めました。田舎にはなかった屋台というものに好奇心を持ち、またノスタルジックな佇まいも魅力的に写りました。おそるおそる暖簾をくぐり、ラーメンだけをなんどか頼み、やがて待つ間に缶ビールを注文するようになりました。酒が入ると口が軽くなり、店主とも話をする間がらとなり、やがては飲み屋のような使い方をするようになりました。ラーメンの具材のチャーシューやメンマをつまみにして、ワンカップと缶ビールを交互に飲み、店主や入れ替わりくる客たちと話をし、都会での孤独を紛らわせていました。

 午前四時ごろになると、車の往来も少なくなり、公園の木々が出す気持ちの良い空気に包まれ、私の夜の時間ももうすぐ終わるんだな、と酒の入った感傷に浸りながら、〆にラーメンのスープだけを注文し、誰もいない家に帰っていくのでした。

 翌日は昼過ぎに起き、枕元にある文学書や漫画を読み、二日酔いの身体を引きずって風呂に入り、半身浴で汗をだして身体からアルコールを抜き、夕方くらいまでには酒の呑める身体に戻し、まもなく来る夜の時間に備えていました。

 高等遊民という言葉が戦前にありました。ある種のロマンチックな響き、憧れとともに今も使う人がいます。経済的に余裕があり、ある種の知性を持つ人間が、仕事をせず、文化的に戯れる日々を送る人々、とでも言いますか。この時期の私は、傍から見れば、または今思い返せば、高等遊民的な(知性はともかく)生活だったといえるかもしれません。こんな生活の秘密は、後に書くことになるかもしれません。

 1992年の東京は、バブルが弾けたとはいえ、まだまだ景気はよく、この先失われた20年や30年という暗い時代が来るとは、人々は夢にも思っておらず、床屋の店主が「あんたが大学を卒業するころには、景気が戻ってちょうどいいよ」と言っていましたが、多くの人はそう思っていたと思います。とはいえ、バブル崩壊の影響は確実に感じ取ることができました。

 最初にラーメンを作ってもらった屋台の店主は、九州で大工をしていたという、きりっとした空気をまとう短髪のおじさんでした。今思い返しても、高倉健のような、という例えは大げさではありません。おじさんのとんこつを食べなれた口には、東京風の醤油ラーメンの旨さがいまひとつピン来ないようで、作ったものにも自信がないのか、常連の私に、今日のスープの出来はどうか、と聞くのが夜ごとの日課でした。彼が屋台を引くようになった原因は競艇でした。バブル崩壊でおいしい仕事が少なくなり、抱えている職人の給料を下げることが出来ず、少しづつ広がる損益の穴を埋めようと手を出したのが競艇で、これがいわば運のつき。行くところに行かないとダメだなと思って、家も売って全部つぎ込みました。真面目な人というのは、こういうことろでも真面目なんだな、と思ったのを覚えています。家には家族も住んでいたろうに。その家族のことも考えず、行くところまで行ったおじさんの身勝手さ。行くなら勝手に一人で行けよ、もしくは周りを考えて、行かずに堪えろよ。今ならこんなセリフも頭に浮かびますが、無頼にあこがれていたあのころの私には、おじさんの生き方に感心もし、恰好良いとさえ思っていたように思います。いつものように明け方まで呑み、また明日、という挨拶を交わした翌晩には、おじさんがいるはずの向こう側に、見ず知らずの60代のおばさんが立って居ました。おじさんは、何も言わず消えてしまいました。裏切られたような気持ちになりましたが、屋台の店主というのは、いつもこんな風に突然いなくなってしまうのが常でした。さよならはもちろん、その気配さえも感じさせずに。

 このおばさんのスープは洋風で、いつもとは違った味わいでした。翌晩に話を聞くと「私よくわからなくて、セロリ入れちゃったのよ、ごめんね」と。おばさんは競馬が好きでした。それも中央競馬ではなく、地方競馬が好きで、全国にある地方競馬で昼間遊び、夜にはその街にある賭場に行くのが趣味だったといいます。「高崎競馬が面白かったんだよ。茣蓙しいて寝転がって、呑みながら賭けてさ、馬主の知り合いから情報も入るから、面白いほど儲かって・・・。また景気良くなると、あんな時代が来るのかねえ。」ぼんやりとそんな話を聞いていました。

 あれから30年、個人のGNPも韓国に抜かされたこの国で、あの時のことを考えていますが、何がいちばん変わったかと言えば、時の流れのような気がします。携帯も普及してもらず、ネットもメールもなかった時代、人々はまだゆっくりと生きていました。屋台というのは杉並区内ではいっさい認められていません。道路という公共の場所で商売をすることを、警察が認めていないのです。そのころ私が住んでいた東高円寺だけではなく、中央線の各駅にも大体ラーメンの屋台は出ていました。上部にはテキヤが居て、家のない店主には共同の寮があり、そこで寝泊りをさせていました。その変わり、屋台で使うラーメンの材料や酒はテキヤから全て購入しなくてはいけませんでした。屋台は誰のものでもない空間にあり、いわばドラえもんでのび太たちが遊んでいた空地のような場所、そう、大人の遊び場だったような気がします。おじさんも、おばさんもどこで何をしているのでしょうか。

 大阪でタクシーの運転手をしていた、という男性が店主の時に屋台に革命が起きました。おでんを始め、つまみを充実し、日本酒とビールに、缶酎ハイが加わりました。缶酎ハイ、これが重要な意味をもちました。ビールも日本酒も呑めないけど、缶酎ハイなら呑める、という若い女性たちが客で来ました。たぶんどこの国でも、若い女性には男が群がります。終電も過ぎると店は大賑わいとなり、またたくまに満席。店主は公園のベンチを持ってきて客を座らせ、屋台の回りに二重の、時は三重の輪が出来ました。今までの演歌の世界も好きでしたが、あの弾けるような夜の世界も面白かったです。様々な職業のひとたちが集まってきました。ミュージシャンを目指す若者、ライター、大学教授、キャバ嬢、大手アパレルの社員、F1の整備をしているイギリス人。うわー、すげー、東京だあー、これが東京だあー。と思ったし、今も思っています。都市とはすなわち人で、様々な人がいるから面白いのです。たぶん幼い頃から思っていた、面白い人たちと面白い話をしたい、という夢があの場所でかなったのだと思います。あの屋台での経験が、今につながっているのだなんと、書きながら思いました。

 大阪のタクシー運転手は小金をため、とあるテナントに入り、居酒屋を開きました。夢の飲食店オーナーです。最初は屋台の常連のたまり場になりましたが、やがて一人減り二人減り、かつてのにぎわいは夢のように消え失せ、やがては店もなくなってしまいました。野外にあったからこその魅力だったのでしょう。

 何代目かの、たこ焼きを焼いていたおにいちゃんが店を仕舞うと、屋台に来て呑むようになりました。元プロボクサーだったといいます。リフティングを教えてもらいました。私が帰る四時ごろには新聞配達が動き始めます。ある日その中に、頬を赤くして自転車をこぐ、かわいらしい女性が混じっていました。苦学生でしょうか。たこ焼きのにいちゃんとその女性が結ばれたといいます。どこでそうなったのかは知りません。「あのタコ、うまいことやりやがって。」屋台のおやじが呟きました。にいちゃんもいなくなり、そんな出来事も忘れたある日、昼間の路上でばったり彼と会いました。立ち話を少ししたら、居酒屋で働き始めたといいます。どういうわけか、新聞配達をしていた女性からもらったという、ラブレターを読んでくれと渡されました。几帳面な字でした。「あなたと会わなければ、私はいつ死んでもいいと思っていました」と書いてありました。「こんなこと書かれて、俺どうしたらいんだよー」照れながら笑っていました。

あの二人がどこでどうしているか、もちろんわかりませんが、時折思い返しては、幸せに暮らしていてくれると良いなと、切実に思っています。



筆者プロフィール

コクテイル書房・狩野 俊

狩野 俊

1972年生まれ。
高円寺・コクテイル書房店主。
最近の目標は「嘘を言わない」
理由は言葉が弱くなるから。

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