のうじょうりえ「日々の余白・杉並 9(在り続けるもの)」

文章 : のうじょうりえ
高円寺

高円寺阿波おどり2025

今年もこの時がやってきた。
高円寺阿波おどり。
去年も阿波おどりのことを記事にしたけど、こればかりは毎年書いても良いだろう。
だって高円寺の一大イベントだもの。
高円寺を愛する者として、何度でも、しつこいほど話して良いはずだ。
それに人が作り上げるものって、全く同じになることはないからね。

8/23、24と2日間開催の阿波おどり。
わたしは8/23に行ってきた。
高円寺を離れてから初めての阿波おどり。
そういえば電車で来るのは初めてだ。
高円寺に住む前は阿波おどりのお祭りのことを知らなくて、住んでからもしばらく「すごいお祭りがある」くらいの認識しかなかったと思う。
これだけ大規模な街全体のお祭りを、何故よく知らなかったのか。
毎年阿波おどりの日に何をしていたかもあまり思い出せない。
高円寺に来たばかりの頃は毎日のようにライブをしていたので、多分夜はライブがあったのだろう。
それに住み始めて最初の3年目くらいまでは、高円寺って良い街だな、好きだなって感情しかなかったと思う。
高円寺が良い街なのは何故か、自分にとってどんな街か、人はどんな風に高円寺という街を見るのか。
そんなことを考えるのはもっと時間が経ってからだった。

高円寺への好きが愛に変わった頃(言い方がちょっとあれだが)街中のお店や行事に気を向けることが増えた。
気になるお店に積極的に行ってみたし、住んでいたら必ず知っているような行事は少しだけでも見るようにしていた。
街をもっと知りたいと思うようになった。
やがて「高円寺だから許される」ことの多さに気が付いた。
他の街だと許されず、変えられてしまいそうなことも高円寺だと「高円寺らしい良さ」として扱われる。
許せない人からしたら、曖昧でいい加減に見えるだろう。
でもその気張らない空気が、街で過ごす人の心を緩めるのだ。

阿波おどりを楽しみながらふと、「苦情とか来ないのだろうか」と野暮なことを考える。
音は大きいし、建物の敷地にまで人が入ってきている。
しかしわたしは今まで高円寺にいて、阿波おどりが嫌だなんて言葉を一度も聞いたことがない。
街全体が阿波おどりに協力していると言っても良いのではないだろうか。
連が練り歩く道沿いの、建物の窓から観覧している人も多い。
中には大人数の団体もいて、もしかして毎年阿波踊りの日はここで集まろうと約束していたりもするのかな、なんて想像もしてしまう。
阿波おどりを観ていたら、真横で立ち入り禁止の柵を乗り越え向こう側へ行こうとしている人が、お巡りさんに止められていた。
家が道を挟んですぐ目の前だったようなのだが、踊りの中心部なのでその道はとても通れない。
お巡りさんが「お祭りだから通れないんです」と言ったら、「それは分かってるけど」と返していた。
しばらくその人は祭囃子に負けないほどの大きな声で粘っていたが、それでもお祭りを否定するような言葉は一切聞こえてこない。
それによく見たらお互い終始笑顔だ。
、、何だか仲良くなってないか?

気になるとすぐ調べてしまう性分で、高円寺の阿波おどりについてネット検索していたら、 東京高円寺阿波おどり振興協会の「光と影」という記事と出会った。
今でこそ人が沢山来るようになった華やかなお祭りだが、行き着くまでには当然影もできる。
楽しいものを作り上げるには、大抵楽しくない苦労も伴ってしまうのだ。
それを乗り越えた先に、自分も他人も感動する素晴らしいものが出来上がる。
高円寺阿波おどりも一筋縄ではいかない数々の苦労があったそうだ。
「この大人気ない情熱こそ、発展の礎であろう」
この言葉に自分のことを重ねてしまい、日々について考えた。
意味のなさそうなことにも意味がある。
腐らず積み重ねたからこそ、見える景色があるのかもしれない。

至る所から歓声や拍手が上がる様子を見ながら、幸せを感じる。
街と人が一つになっている気がするのだ。
邪魔をしないように一緒に踊る人、演舞が終われば「ありがとう」と言う大きな声、演者からは見えないような建物の上からも拍手を送る人。
演舞の素晴らしさはもちろん、その光景に更に感動を覚える。
わたしが感じたことはお祭りの全てではない。
一個人の、至極断片的なものだ。
あなたにとっての高円寺阿波おどりがどんなものかは分からない。
ただわたしにとってこのお祭りが、年々大きな存在になっているのは確かだ。

夏の花

数年続けてきたこのコラム。
青々とした季節には植物のことをよく書いてきた。
高円寺のことを抜くと、もしかすると1番多く書いたテーマかもしれない。
数年前募金した時にもらった朝顔の種から、毎年花が咲く。
自分の環境がどれだけ変わっても、朝顔はいつどこでも変わらず咲いている。
変わることばかりの中で、変わらないものが目の前にあり続けてくれるとほっとする。
その生命力の強さにも元気をもらったりもする。


今年は朝顔に加え、ひまわりも植えた。
一昨年くらいにひまわりを育てたのだが咲かせてあげられず、今年こそはと意気込みながら。
6月中旬頃に植えたひまわりは、ぐんぐんと伸びわたしの身長を抜かしていった。
そして8月前半に1つ目のひまわりが咲いてくれた。

咲く前からひまわりを中心に虫の生態系ができていて、観察するのが楽しかったし退治するのも心が引けたので、そのままにしていた。
そのせいの栄養不足か日差し不足か分からないが、もっと大きくなるはずの花びらが小さめで、隙間も多くなってしまった。
申し訳ない気持ちになった。
種はほぼ同じ場所に植えたのだが、日当たりがそれぞれ微妙に違かったようで、建物の影ができない場所のひまわりが1番よく育った。
背丈といい花の大きさといい結果が顕著で、それ以外は同じ環境のはずなので、ひまわりにとって太陽がどれほど大切なのか教訓になった。
こちらは2番目に咲いたひまわり。ふわふわしている。

ひまわりは、明け方になると日が昇る方を向いて朝を待っている。
日差しを浴びながら全てのひまわりが同じ方を向いて佇む様子は壮観だった。
間違いなく光の方に向かっていける、ひまわりみたいになれたら良いなと思った。
結局、小さいひまわりも大きいひまわりも、全てが紛れもなく綺麗だった。
その姿を見られただけで嬉しかった。
懸命に生きるものは、存在するだけで希望を与えてくれる。

最近の夏は耐えられないほど暑い。
地球はもうすぐ人が住めない環境になるのではないかと毎日のように考えている。
わたしは今年初めて熱中症になった。
水はしっかり飲んでいたのだが、外の暑さと室内のクーラーの寒さとの温度差に食らったようだ。
家に帰って眠ってしまい起きたとき、気持ち悪さと寒気が凄くて恐怖を感じた。
それでもやっぱり夏は好きだ。
植物や虫や、生き物が生き生きとしている。
命を間近で感じ力をもらいながら、楽しみを増やしている。
外でお酒を飲むのもぴったり。肌寒いよりちょっと汗ばむくらいの方がお酒が美味しい。
これは高円寺が教えてくれた楽しみだ。
他の季節はこうもいかないので、夏は貴重だ。
もうこれ以上暑くならないでほしいというのは切に願う。危険すぎる。楽しむ余裕なんてなくなる。
環境に貢献できているかどうかは分からないけど、冷房は常に28度と決めている。体にも良い。
わたし1人だけじゃ世界は変わらないし、大きなこともやれないけど、できる範囲で環境に良いことは細々とやりたい。
ただ勝手に、自分の好きなものにあり続けてほしいってだけだけれど。


ライタープロフィール

のうじょうりえ

千葉県出身のシンガーソングライター、エッセイスト。
日々の悲しみや弱さや喜びの心象風景を「生きること」に視点を置いた文学的歌詞と言葉と共に、圧倒的なリアリティを持った美しい歌声とアコースティックサウンドで、自分自身と向き合う為の音楽を発表。年間でワンマンライブやサーキットフェスを含む200本近いライブ活動を行なう。
エッセイストとしても活動し、2022年より「ツブサ・スギナミ」にてコラムを連載中。

ホームページ
YouTube
Twitter
Instagram