わたしの主観で高円寺のことを書き続けた、ツブサ・スギナミでのエッセイ「日々の余白」
今回で最終回です。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
そしてエッセイという場を下さった、ツブサ・スギナミに感謝しかありません。
先にご挨拶をさせていただきました。
ここから先は、振り返りながら自分の文章を書かせてもらいますね。
このエッセイを書き始めて、気が付いたら4年と少し経っていた。
こんなに長く続けられたものがあるというのは、人生にとっての宝だ。
続けた中で得たものも、続けられたという経験も、きっと力になってくれる。
そして「気が付いたらこんなに続けていた」というのは、もしかしたら本当に自分が好きなものなのかもしれない。
なんでか分からないけど続けられている。
これが実は、とてもとても重たいことなんだ。
初めた頃は「高円寺の “ 庶民派 ” 女王・のうじょうコラム」というタイトルだった。
この頃からわたしが書いてるのコラムってよりエッセイじゃね?というのはさて置き
何を隠そう、わたしは高円寺の女王なんて通り名がついていたのだ。
決して、自分でつけた訳ではない。
高円寺に住み着いて最初の数年は、本当にお金がなかった。
お金がない為に路上ライブをしまくっていたからか、路上飲みをしまくっていたからか定かではないが、いつの間にかそんな風に呼ばれていた。
そんなわたしも高円寺を離れることになり、女王の座も返上して(?)
このエッセイは「日々の余白」へとタイトルを変えた。
人の日々の余白はあまりに多い。
電車で席を譲ってくれた人、割り込んで席に座る人、目の前の席を取られるわたし。
わたしにとって良い人は、わたしの知らない所でも良い人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
割り込んできたあの人は、ここに来るまでに何か嫌なことがあったのかもしれないし、特別疲れてるのかもしれない。
想像してみれば無限に広がるけど、今分かるのは自分から見えているものだけ。
あの人の余白を、わたしは知らない。
わたしの余白を、あの人は知らない。
そう気が付いたとき、このタイトルでエッセイを書きたいと思った。
タイトルをつけた当時、わたしにとって文章は「歌詞の行間や余白を埋めるもの」という感覚があった。
今ではその感覚も薄くなってきて、隅々まで語らなくて良いと思うようになった。
入り込む隙間はあった方が良い。
例え誤解されても、理解されなくても。
音楽ばかりだったわたしが、こんなに文章とも向き合うようになったのは、確実にこのエッセイのお陰だ。
これからまた違う場所で、わたしなりの余白を書いていくのだろう。
せっかくもらったきっかけを、頑張りたい。
高円寺を離れた後もエッセイを書いていけるか、不安はあった。
けど、書けてしまった。
まだまだ書きたいことがあった。
そうして1年半ほど書き続けて、「今わたしが思う高円寺」をとうとう書き切ったように感じた。
自分が作る音楽や文章に本当を投影したいわたしにとって、これほど終わりにするべきタイミングはなかった。
このまま書き続けたら、いつかどこかで嘘をつくことになる。
そうなる前に終わらせたかった。
終了が決まってから、不思議と高円寺に対しての気持ちもなんとなく変わった。
住んでもないのに今までずっと「中の人」気分だったのかもしれない。
わたしはやっと「ただ高円寺に遊びに行く人」になるのだ。
高円寺で過ごした日々のこと、人のこと。
思い出と呼ぶほど、ぼやけていない。
今も色濃く自分の中に残っている。生きている。
わたしはこんなにも、高円寺のことが好きだ。
高円寺はわたしに、大切なことを教えてくれた。
だから大丈夫。
これからも。





のうじょうりえ

千葉県出身のシンガーソングライター。
日々の悲しみや弱さや喜びの心象風景を「生きること」に視点を置いた文学的歌詞と言葉と共に、圧倒的なリアリティを持った美しい歌声とアコースティックサウンドで、自分自身と向き合う為の音楽を発表。
年間でワンマンライブやサーキットフェスを含む200本近いライブ活動を行なう。
2022年より「ツブサ・スギナミ」にてエッセイを連載。


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