前話のあらすじ
~中野区大和町に住む主人公の「小田切(ジョー)」は、高円寺を歩いていて気付く。
「誰も僕を見ていない。」
否定の概念に乏しく、寛容な文化に特化した街、高円寺。
あづま通りにあるバル【Sahar】のマスターにそんな話をしていたら、カウンターの隣に座っていた女性がマスターに『テンさん・・・』と声をかけた。~
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ん?テンさんとは…?
僕の頭の中に広がるお花畑の中に芽吹いたクエスチョンマークが満開に咲き乱れた。
女性の視線の先にはマスター、そういうことか、瞬時に理解した。
思い起こせばマスターの名前を伺ってなかった、いつもマスターと呼んでいたし、僕が行く時はカウンターに他のお客さんがいないことが多かったから名前を呼ばれているところを見る機会もなかった。
『あ、ごめんごめん、話に夢中になっちゃって忘れてた、すぐに作るね』
名前を呼ばれ、全てを察したマスターはカウンターに背を向け、コンロに火をかけた。
どうやらだいぶ前に注文したパスタがまだ来ていなかったようだ、注文が殺到している状況ならまだしも、カウンターの僕と何分も会話している状態でそれはまずい。
国が国なら抗争に発展しかねない事案だ。
そんな状況下でも、その女性は僕たちの会話を中断させてしまったことに対してごめんなさいと伝えてきた。
とんでもない、謝るのは僕らの方、いや多分絶対マスターだ。
ちらっとマスターの方を見ると、あからさまに必要以上にフライパンを振っており、パスタを作る工程で必要のないであろう動きを、厨房をフルに使って繰り返していた。
その後ろ姿は一言でいうと滑稽であったが、マスターらしいなとも思った。
『ここには結構来てるの?』
『いえ、1ヶ月程前に高円寺に引っ越してきまして、ちょうど帰り道なんで、仕事終わりに寄らせていただくことが多いんです。
このお店は長いんですか?』
『うん、もう三年くらいになるかな、私も家がすぐ近所で、たまにここで空いてるときは勉強したりもしてるんだよ〜パスタとか食べた?』
『あ、まだ食べたことないんですけど、いつか食べたいなとは思っていて、何がオススメなんですかね?
メニューの文言が特徴的なんで、よく見てはいたんですけど、やっぱり一番上に書いてあるカルボナーラなんですかね?』
『いわしのパスタだね』
彼女は、オススメのパスタを聞こうとした僕の問いを最後まで聞くこともなく、即座にそう言い放った。
その一言は、まるでそれが主の啓示であるかの如く、稲妻の如く凄まじい勢いと早さで僕の脳裏に突き刺さった。
『いわし、ですか?』
『そう、美味しいんだよ〜今作ってもらってるのがそうなんだ、良かったら一口食べてみる?』
『良いんですか?ありがとうございます』
ニコニコしながら語りかけてくれる彼女の様子に自然と会話も弾んでしまう。
彼女の名前は温水薫さんといって、お店の常連客の中でも一番顔が知れているそうで、ほとんどの常連客と顔なじみだそうだ。
後から聞いて驚いたのだが、今年で40歳になるとのこと、とてもそうは見えないが、本人曰く色々焦っているとのことだった。
何を?というクエスチョンはもちろん喉元でとどめておいた、今年の目標はデリカシー、大事にしよう。
『ちょっと気になっていたんですけど、テンさんと言うのはマスターのことですか?
初めて聞いたものでして』
『そう、テンさん、漢字の天って書いて、あまた、って読むからテンさんって呼んでる人が多いんだよ〜
藁垣天(ワラガキアマタ)さんって言うんだよ』
『そうなんですね、僕もテンさんって呼んでもいいんですかね?』
僕の問いに彼女は、まるで悪戯っ子を絵に描いたようなニヤリとした笑みを浮かべて言った。
『うん、喜ぶと思うよ〜呼んであげて』
そんな会話を弾ませていると、マスターがパスタを運んできた、良い匂いがする。
『お待たせ〜ごめんね、遅くなっちゃって、でも自己ベスト更新したから、美味しいはずだよ〜』
恐らく自己ベストは頻繁に更新されているのであろう、薫さんは自己ベストのワードには反応することなく、笑顔で美味しそう、とつぶやいた。
『カウンターの会話がちょっと聞こえてきたからね、これはジョー君の分ね』
そういって小皿に取り分けてくれたパスタを僕に渡してくれた。
『テンさん、ありがとうございます。
薫さん、いただきます。』
今までのマスターという呼び名からテンさんに変更して呼ぶ際はタイミングが重要だ、ここしかないという絶妙なタイミングで言えたと思ったが、テンさんは少しの驚きとほんの少しの残念そうな目をしているようにも見えた。
『どうぞどうぞ、お口に合うといいんだけどね~
あと、、テンさんでもいいんだけど、ここはどうかな?
思い切ってガッキーって呼んでみるっていうのは?』
『美味しいです、このパスタ、テンさん、美味しいです』
『あ、うん、ふぁっふぁっふぁっ~
おけおけ、ありがとね~』
テンさんの小さな野望が潰えたその様は、美味しいパスタに満足げな表情の僕とその様子をにやにや微笑みながら見守る薫さんとのショットで綺麗におさまっていた。
僕には、ガッキー呼びは少しハードルが高かった。
薫さんは、食べ終わると翌日の仕事が早いからということで颯爽と帰っていった。
テンさんと二人きりになったカウンターで少し聞いてみたいことがあったのでアルコールを追加注文した。
『いわしのパスタ美味しかったです。
メニューだと上から二番目に書いてあるんですけど、この順番っておすすめの順だったりするんですか?』
『ん~そうだね~
オススメであったりする部分もあるし、そうじゃない部分もあるんだよね~』
相も変わらずの、のらりくらりとした返答だったが、もう少し掘り下げてみたくなった。
『テンさん的には、カルボナーラといわし、どっちがオススメなんですか?
両方って言うのはダメですよ』
『ふぁっふぁっふぁっ~
今日はいつになくアグレッシブにくるね~
そんなジョー君も嫌いじゃないよ。』
テンさんはそう言うと一呼吸おいて話し始めた。
『カルボナーラはこの店を始めた時からずっとあるメニューなんだよね。
その反面、いわしのパスタは一番新しくできたメニューの一つなんだよね。
今ジョー君をはじめ、お客さんが来てくれているのは、以前のSaharではなく、今のSaharなわけで、今のウチを一番表現できているのは、以前からあるパスタではなくて、新作のパスタだと思うんだよね。
だからカルボナーラはもちろん看板メニューであることは間違いないんだけど、
今のオススメということだったら、いわしのパスタってことでどうかな?』
『あ、ありがとうございます、意外と真面目に答えてくださって、ちょっと恥ずかしながら感動しました。』
『ふぁっふぁっふぁっ~
僕だって言うときはちゃんと言うんだよ』
饒舌に語るテンさんを見て、今だったら何でも答えてくれそうだなと感じたので僕は思い切って聞いてみた。
『テンさんは好きな女性のタイプとかってあるんですか?』
テンさんは、その問いに対し、躊躇うこともなく、曇りなき眼と過去一番の大きな声、よどみなく発せられた活舌の良さで答えてくれた。
『きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ』
⇒次回、5話へ続く。(5月11日更新予定です。)
著者・プロフィール
玉川 アキラ
東京都出身、ヒッピー文化発祥の地である国分寺で大半を過ごす。
『韋駄天』『ゆらりゆられゆるりらと』『転生したら友達が増えた』などのノンフィクション作品で知られるが、壮大なスケール構成なため筆が進まず、どの作品もタイトル以外は完成していないことから、『未完の大器』と業界では囁かれている。
産声をあげたその瞬間からカレーの匂いが苦手であるゆえ、今ではカレーの匂いを皮膚が感知した瞬間に、鼻呼吸から口呼吸に自動に切り替えられるように身体を進化させている。
普段はFXトレーダーとして活動しているが、裏では高円寺のフードパブ『Ahola』の店主を気取っている。
【写真】望月泰貴