中央線文化幻想解剖 (歴史から紐解く)【阿佐ヶ谷・喫茶天文図舘】

阿佐ヶ谷

お初にお目にかかります。
阿佐ヶ谷で「喫茶天文図舘」というお店をしている山城と申します。
街やお店という空間が好きで25歳の時に喫茶店を始めました。

生まれも育ちも杉並区は荻窪。
今も中央線沿いのどこかに隠れて住んでおります。

好きなものは喫茶店や本、西洋絵画、宮沢賢治、化石、鉄道、野球、武道、漫画、アニメ、80,90年代J-POP、町歩きなどなど。
サブカル大好きなヲタクだと思って頂いて差し支えありません。

ちなみに上述したものは好きではございますが、全くと言って良い程詳しくは無い訳で。
博識なお客様とお話をする際はよく知ったかぶりをしております。


さてそんな中央線にドップリな僕ですが、これは間違いなく中央線沿線文化に汚染されている為と申しても過言ではないでしょう。
一般的に中央線沿線と言えば文学や美術などの文化関係者、音楽や演劇、お笑いなどの芸能関係者の溜まり場というイメージでしょうか。

さらに言葉を選ばず申し上げますと、全ての単語の頭に「売れない」がついてしまうかもしれません。
つまり夢を追う若者の巣窟と言ったところです。
しかしながらその反面、荻窪出身ですと申しますと、「良いトコの子だね」と言われる事も多々あります。

この相反する世間の認識は何なのでしょうか。
我々は眉唾モノのネット情報に踊らされているのでしょうか。
チャットジーピーティーに聞いてみましてもヤツらは適当な返答しかしてくれません。

やはり最先端技術なんて信用出来ませんね。
僕らの心の拠り所はいつだってアナログ文化。
貧乏で暇な僕は図書館で本を借りて今の中央線幻想を歴史から紐解いてみることにしました。

中央線の文化と歴史を大別

いきなりですが申し訳ございません。
「中央線の範囲ってどこやねん」と皆様思われましたよね。
僕も書きながら思いました。

正しく中央線の範囲はと言えば東京駅-高尾駅間となりますが、中央線文化と言えば一般的には中野駅-吉祥寺駅間の事を指しますよね。(※あくまで個人の見解です。)

さらに、ここでは高円寺駅-西荻窪駅間(杉並区)と絞らせてください。
理由と致しましては、僕は生粋の杉並っ子ですので杉並区を積極的にアピールして行きたいと思っているためであります。
決して中野(中野区)と吉祥寺(武蔵野市)まで調べる事を諦めた訳ではございません。

さてそんな僕が愛して病まない杉並区ですが、なんと路線が5つも走っております。
北から西武新宿線、中央線、丸の内線、京王井の頭線、京王線。
その中でも杉並区のド真ん中を東西に横切っている中央線沿線地域が今回の舞台でございます。

さてこちらの地域の歴史でございますが、時代を大きく下記の4つに分けて考えていきます。

  1. 江戸時代以前
  2. 明治時代
  3. 大正・昭和時代前期
  4. 昭和時代中期以降

それでは1つずつ見て行きましょう。

中央線の文化と歴史【江戸時代以前】

江戸時代以前の杉並区は森だったそうです。
最近大河で話題の徳川将軍家御用達の鷹狩場で、狸が野を駆け回っておりました。

僕も小学生時代はお上の言う事に反抗して野生動物さながらに校庭を荒らしておりましたので、世が世なら狩られていたかもしれません。

中央線の文化と歴史【明治時代】

さて、ここからが本番です。
我らが中央線の駅が初めて誕生したのはいつだかご存知でしょうか?
小見出しを確認された方はとても察しが良い。

正解は明治時代でございます。

全ての始まりである荻窪駅が1891年に産声をあげました。
それまでただのド田舎だった土地が我々の知る街に発展した原因はここにあります。

ちなみに最初は南側にのみ改札があり、北側には何も無かったとのこと。
貨物専用のホームもあり、様々な貨物が都心から行き来したのでしょうね。

すぎなみ学倶楽部より引用

中央線の文化と歴史【大正・昭和時代初期】

そして時は1922年。
阿佐ヶ谷、高円寺、西荻窪にその地の名前が着いた駅が誕生します。

しかしその誕生も簡単ではございません。
実は荻窪と中野の間には駅を1つしか作る予定がなく今の馬橋(高円寺と阿佐ヶ谷の中間)という地域に作る予定でした。
今ドラマで話題のオードリー春日さんが20年間住んでいた「むつみ荘」のあたりですね。

余談ですが、僕はオードリー好きです。
ちなみに中学生の頃にクラスメイトがむつみ荘でピンポンダッシュをかましたと自慢しておりましたが、あれは本当だったのでしょうか。

もしこの文章を読んでいたらコッソリと真相を教えて下さい。
全力で説教をさせて頂きます。

トゥース!!!

ほぼ確定していた幻の馬橋駅ですが、何と直前に予定していた場所の地主が本当に土地を提供するか悩んでしまったらしいのです。
わざわざ駅から伸びる道路まで作ったのに。

しかしながら当時は「土地の減少=収入の減少」ですからしょうがありませんね。
僕も役人から、「駅作るから店の大きさ半分にして良いよね?無償だけど。」とか言われたら嫌ですしお寿司。

そんなこんなで馬橋駅の話が頓挫している間に、これはチャンスと勝負に出たのが阿佐ヶ谷の人々。
「阿佐ヶ谷は荻窪寄りだけど、中野寄りの高円寺にもう1つ駅を作ればバランスも良いしモーマンタイだ!」と名案を閃きます。高円寺の人々もこの名案にはフリーライド。

当時、南阿佐ヶ谷に住んでいた代議士さんが頑張って阿佐ヶ谷&高円寺駅構想を実現します。
そのお礼として阿佐ヶ谷の人々は代議士さんの家まで馬車が通れるように広げた道が、七夕祭りで有名な今のパールセンター。
歴史は繋がっていると感じるエピソードですね。

ちなみに西荻窪も内田秀吾郎さんという名士が駅周りの開発に尽力し、無事3駅同時に開業する訳です。

すぎなみ学倶楽部より引用

さて、時を同じくして荻窪には都心から様々な人達が移り住んできます。
1つは商売で成功した経済人。1つは軍人。そして1つは我らがインドア代表の文人達です。

当時の荻窪はまだまだ自然豊かな郊外。
今で言う軽井沢や葉山のようなイメージでしょうか。
そんな風光明媚な荻窪に成功した経済人や軍人達が別荘を持つ訳ですね。羨ましい。

ちなみに別荘地として選ばれた理由はどうやら大きく2つ。
1つに別荘地は地盤が固い川の北側が向いている。つまり善福寺川の北側に位置する荻窪の南側は別荘地に向いていた。
1つに中央線や路面電車(当時は青梅街道に走っていた)によって都心へのアクセスが良い。

とても優れた土地だった事が理解出来ますね。
当時は西の鎌倉、東の荻窪とまで言われていたらしいです。
……どっちも西じゃね?

僕の母校の校歌にも「都の西の荻窪は草木茂り鳥歌い小川の流れ爽やかに」という1節があります。
あの与謝野晶子先生が作った素晴らしい校歌でございまして、全校朝礼で歌っていたような気もしますが、遅刻常習犯の僕は皆が歌い終わった頃に登校しておりました。

閑話休題。

別荘地として有名だった荻窪には時の総理大臣「近衛文麿」も邸宅を持ちます。
かの有名な『荻外荘』です。「おぎがいそう」ではなく「てきがいそう」と呼びます。
敵が居そうであまり穏やかではございませんね。

この邸宅で戦時中は国運を左右される会議が連日繰り返され、その度に新聞やラジオで荻外荘がある荻窪がクローズアップされます。
ここから首相邸宅もある荻窪は「高級住宅街」として世間に認知されていき、現在に至る訳です。

また、当時は土地も安かったため荻窪や阿佐ヶ谷周辺に多くの文人達が集まってきました。
荻窪風土記の井伏鱒二や人間失格の太宰治、蟹工船の小林多喜二などなど。
文人が文人を呼び、文人達の一大コミュニティが形成される訳です。

彼らは阿佐ヶ谷駅前にあった「ぴのちお」に集結し、文学論を日々戦わせていた…のではなく、日がな一日将棋を指していたのでありました。
俗に言う「阿佐ヶ谷将棋会」でございます。

つまり現在の高級住宅街や文人達のイメージはここから来ている訳ですね。
もはや80年以上前の話です。文化の力って凄いですね。

すぎなみ学倶楽部より引用

さて皆様そろそろ飽きてきた時間では無いでしょうか。
知っておりますよ。これを読んでくださっている貴方様。
最近長い文章が読めなくなって居ますよね?

完全にティックトックの弊害です。

僕もそろそろ良い頃合かなと思っているのですが、先日ツブサ編集長のシゲタさんに言われたのがこの一言。

「山城さんの記事で一気にツブサが引き締まりますね!」と。

これは褒めているように見せかけた圧です。
通勤ラッシュの中央線に勝るとも劣らない圧です。
この呪いの言葉に僕自身が引き締められている訳なので、もう少しばかり着地の見えない駄文の旅行にお付き合いくださいませ。

あ、そういえば最近の編集長ですが色んなところ行き過ぎだと思いませんか?
四国に台湾、関西にこの前は北海道に行っておりましたよ。羨ましい。
証拠のブツをこちらに載せておきます。

僕も編集長の真似をして世界を飛び回りたい気持ちは山々ではありますが、財布の中身が荒野な訳で。
最近では杉並区にある35町を歩いて回る企画を1人で遂行中でございます。

喫茶店でアイスコーヒーを注文してから、机いっぱいに地図を広げどこを周るか作戦会議。
今日なんて荻窪の北側にある天沼・清水・今川・桃井を5時間かけて散歩して参りました。
友達が居ないにも程があります。

いまどき大学生でもしませんよね。
しかしながら、大学生達がそんな貧乏生活を繰り広げていた時代がありました。
ここから音楽と芸能、喫茶の時代の幕開けです。

中央線の文化と歴史【昭和中期以降】

戦争が終わり、減少していた杉並区の人口もすぐに増加に転じました。
ですが当時の杉並区はまだまだ東京郊外。
本格的に都市化し始めたのは1964年の東京オリンピック頃だったそうです。

都心部へのアクセスが良かった中央線の当時の乗車率は300%越え。
通勤地獄を解消するために荻窪から新宿まで丸の内線も開業されました。
サラリーマンが増え、学生も増え、この時期に中央線文化が花開きます。

文化を作るのはいつの時代だって若者。
お金は無いけど時間は有り余る学生がジャズ喫茶に入り浸り、本を読み、政治を語る訳です。
もともと文学青年窶れした作家達を受け入れる土壌があった中央線沿いは、苦学生達には居心地が良かったのでしょう。

また、1972年には吉田拓郎が「高円寺」を歌い、ブレイク直前の多くの役者や歌手が中央線沿いで活躍しておりました。
数年後には荻窪ラーメンが全国に名を広め、中央線一帯に熱気があったとのこと。

今の中央線文化のイメージはこの時期の名残かもしれません。
裏を返せば、この時代以降は街が大きくアップデートされていないとも言えます。
ちなみに僕の両親が上京を機に荻窪に越してきたのもこの時期でございます。

余談ではありますが、荻窪には邪宗門という名喫茶がございまして。
僕も学生の頃から何度もお邪魔しており天文図舘を作る時のモデルにさせて頂きました。

門主は数年前に卒寿を迎えた著名なママなのですが、僕の母が「始めて行った頃からおばあちゃんだった」と申しておりました。
先日もお店に伺ったのですが満席で入れず、歴史の重さをひしひしと感じた次第でございます。

憧れの邪宗門はこんな感じ

中央線あるあるPROJECTの記事

さて、そんな経済成長の裏側では環境汚染もだいぶ酷かったようです。
川は下水で濁り、光化学スモッグで体調不良者が続出。
杉並病という言葉まで生まれ、僕が小学生時代までは警報が頻繁に出ていたと記憶しております。

ちなみに現在の杉並区のマスコットキャラクター・なみすけの好物は「きれいな空気」。
特技は「背中のヒレで空気をきれいにすること」とのこと。
すこぶる自虐的なキャラ設定がかつての文豪達の面影と重なり、杉並区民として大変誇りに思います。

杉並区HPより引用

中央線の文化と歴史さいごに

さてさて夜も深まり、僕の本性が顔を出して参りましたのでそろそろまとめに入りたいと思います。
はじめに申し上げた中央線のイメージは下記の時代に浸透した訳ですね。

  1. 文学→大正・昭和初期
  2. 高級住宅地→大正・昭和初期
  3. 音楽・芸能→昭和中期以降

最近では高円寺芸人が話題になり、今もなお文化が色濃く残る中央線。
そんな中央線で生きる貴方様の人生が珈琲色に輝く事を願っております。

おあとがよろしいようで。


ライター・プロフィール


山城隆輝

喫茶店店主。
1994年生まれ、荻窪出身。
100年続くお店を作ることを目指しています。

Twitter
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Instagram
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Note
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