のうじょうりえのエッセイ「日々の余白・杉並 17(沼から抜け出す)」

文章 : のうじょうりえ
のうじょうりえ(シンガーソングライター・エッセイスト)

思い出

ツツジが咲いている。
変わることだらけだけど、春は必ず来てくれる。
大人になって気が付いたけど、わたしは多分ツツジが好きだ。
というか、大人になったから好きになったのかもしれない。

子供の頃、家の近くの自衛隊駐屯地で毎年「ツツジ祭り」が開催されていた。
自衛隊の乗り物が披露されたりなど、大人も楽しめるような、名前の通り満開のツツジに囲まれながらのお祭りだった。
しかしながら子供のわたしは花より団子。
子供の頃から食い意地が張りっぱなしだ。
そんな訳で、ツツジ祭りでツツジを眺めるような情緒は持ち合わせていなかったのだが、思い出はしっかりと残っている。
「ツツジは明るくて楽しい」という印象はわたしに根付き、大人になってから芽を出す。
芽を出した思い出に、高円寺駅前広場の花壇に咲くツツジの真ん中で、友人とお酒を飲み笑い転げた思い出も積み重なる。
ツツジの花を好きになるには、十分すぎる思い出がわたしにはあった。




ツツジは春の風物詩。と言いたい所だけど、そこで忘れちゃいけないのは桜。
少し遡るが、今年も花見に行った。
桜を眺めながら、去年のことを思い返していた。
花を見ていると色々思い出してしまうのは、変わらず咲いてくれるからだろうか。
去年桜が咲いた頃は、あんまり余裕がなかったな。
桜は見に行ったけど、ずっと何かが心や頭に引っかかっていたのを覚えている。
思い出してしまうくらい一杯一杯だったんだなと、1年経って分かる。
自分のことは時間が経ったり距離を置いたりしないと、意外と分からないものだ。

桜の周りで出店している屋台の中から、どうにか食べたい鮎の塩焼きを探して回る。
全店確認しても見つからず、もうないかと諦めたとき、振り向いた先に「鮎の塩焼き」のお品書きが目に入った。
さっき寄って飲み物を買ったお店だったが、端っこに小さく書かれていたので見落としていた。
鮎の塩焼きを狙っていた割には他の物も食べまくり、大判焼きを口に入れながら舞い上がった。
大判焼きを立ち止まって食べようとしなければ、もしかしたら気が付かなかったかもしれない。
寄り道して、立ち止まって、見返して、そこで初めて気がつくこともあるのだ。

そうして出会えた鮎。
「まだ焼き上がってないから30分くらい回ってからおいで」と言われたが、結局1時間ほど待った。
待望の鮎の為なら何のその。
去年と比べて、大分余裕を持てるようになったなあと、鮎の塩を少し払い落としながら。
もうとっくにお腹はいっぱいだったが、その日1番美味しく感じた。




思い出といえば、もうひとつ書きたいことがある。
先日スクエアエニックスのオーケストラコンサートを観に行ってきた。
大分倍率の高いコンサートだが、わたしはもちろん落選、多く当てた友人に譲ってもらった。
わたしの思い出の3分の1ほどは、スクエニでできているといっても過言ではない。
兄がいたこともあり、ゲームは幼い頃から身近な存在だった。
親にほどほどにしろと叱られることはもちろんあったが、「ゲームは教育に悪い」という俗説が囁かれていた当時にゲームをやらせてくれたことには、大感謝している。
ゲームのお陰でわたしの感性や文化は構築されたと思うから。




スクエニという枠を超えても、「クロノ・トリガー」が未だに1番好きなゲームだ。
不朽の名作と言われているゲームなので、やはりそうかお前もかと思われるかもしれない。
思い出補正を抜きにしても、このゲームはどこを取っても最高だ。
しかしながら、一番やり込んだゲームは「クロノ・クロス」だ。
何周したか分からないほどやったので、歩く攻略本と自負する(絶対に言い過ぎ)
わたしが小学生くらいのときに発売してプレイしていたと思う。
今はそんなにやり込むほど時間がないし、おそらく飽きてしまうし、体力もないので、子供時代って本当に無敵だったんだなあと思う。
ただ昔やっていたゲームも、大人になって改めてプレイするとかなり違う感覚でできるものだ。
ストーリーがよく分からなかったゲームも、難しくて進められなかったゲームも、「これはこういうことだったのか」と子供時代には理解できなかった感動がある。
大人になるのも悪くないもんだな、と思える瞬間のひとつだ。

思い出というのは、つくづく自分を形成していくものだ。
良いものでも悪いものでも、今の自分に大きく関わってくる。
「昔こうだったら今こうはならなかったかな」と思うことが、ないこともない。
ただそれに絶望するだけなのは、勿体ない気はする。
思い出をどう扱って乗りこなすかは、自分次第だ。
そういう風に考えられるようになったのも、一旦絶望を挟んだりもしたからかもしれない。
大人になった気がしても、まだまだこれから知ることばかりなんだろうな。



沼から抜け出す

住んでいたときから感じていたことだが、離れた今もなお感じる。
高円寺の治安の良さ!
高円寺に住んだことがない人にはどうにも信じてもらえないのだが、この街は本当に平和だ。
確かに酔っ払いは多いし、駅前は騒がしい。
どこからともなく奇声や大声が聞こえてくる、酔い潰れて道端で人が倒れているなんてのは、日常のありふれた風景だ。
こんなことを言っていたら、また信じてもらえなくなってしまうか。

最近高円寺にいて治安が良いと思った所。
思わぬ場所だが、それはジムだ。
エニタイムの会員なのだが、先日高円寺で暇な時間ができたので、初めて高円寺のエニタイムを利用した。
エニタイムはどこにでもあるので、こういう所が便利だ。
飲み歩くだけで全く運動をしていなかった、昔の自分からは想像もできない。
毎日のように歌ってるから大丈夫だろうと思っていたのだが、知らず知らずの内に体は衰えているようで、歌うとき声が出にくい所が出てきた。
それがジムに行き始めてから、さらりと治った。
やはり筋肉は全てを解決するのだ。

とまあ筋肉のことはさておき、高円寺のエニタイムでのこと。
荷物を置いておく所は鍵などもなく、ロッカーでもなく、正に棚。
運動しながら棚に入れた荷物を見張っていることは難しいので、貴重品は小さな鞄やポケットに入れたり、手で持ちながら移動するはずだ。
しかし、誰もそのような人がいないのだ。
辺りを見渡しても、皆手ぶら。
お財布をポケットに入れている様子もない。
もしかして、もしかすると、皆お財布まで棚に入れっぱなしなのか、、?
まあまあ利用者がいるので、ここにいる全員キャッシュレスに生きているとは思えない。
高円寺は現金主義のお店や人も多いし。
そこでわたしは思い出す。
この街の治安を。
カバンを持ち歩いている自分は余所者な気がしてきて、思わず肩身を狭めてしまった。

そういえば高円寺に住んでいたとき、わたしも買ったティッシュを自転車のカゴに入れたまま出掛けていた。
飲みに行くのに持ち歩くのが邪魔だったのだ。
一度だけ、なくなっていたことはあったけど、、
きっと緊急で必要な人がいたのだろうと信じている。
鍵をかけ忘れた自転車を盗まれたことも一度だけあったけど、乗り捨てられた自転車が見つかったのが新宿だったので、犯人はきっと高円寺に住んでいる人じゃないと信じている。
なんでか分からないけど、この街にいると少し寛大になる。
それに街のことを信じたくなる。
こういう小さいなんとなくが、治安の良さに繋がっているのか。定かではないが。

そんな高円寺の沼からわたしは抜け出してしまったのだろうか。
いささか寂しさを感じながら、運動する。
「沼から抜け出す」という言葉を、悲しい意味で使うこともあるんだな。

今回のエッセイで高円寺の再開発のことに触れたかったのだが、先月は高円寺に行けなかったので近々別の回でまた書きたいと思う。
今の高円寺の姿をこの目で見て、感じたことを書きたい。

あと私事ですが、5/27にセカンドアルバム「命の重さが目に映る」を全国リリースします。
そしてその日に高円寺ヴィレッジヴァンガードでインストアライブがあります。
入場無料ですので、お散歩の途中で是非お立ち寄り下さい。
一応言っておくと、このフライヤーはわたしが作ったのではありません。





ライタープロフィール

のうじょうりえ

千葉県出身のシンガーソングライター、エッセイスト。
日々の悲しみや弱さや喜びの心象風景を「生きること」に視点を置いた文学的歌詞と言葉と共に、圧倒的なリアリティを持った美しい歌声とアコースティックサウンドで、自分自身と向き合う為の音楽を発表。年間でワンマンライブやサーキットフェスを含む200本近いライブ活動を行なう。
エッセイストとしても活動し、2022年より「ツブサ・スギナミ」にてコラムを連載中。

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