高円寺を離れてから今更ながら体感したことがある。
この街は狭い。
狭いというのは街の大きさ広さに対してではなくて、感覚的に。
街を歩くと知り合いに必ずと言って良いほど会うのだ。
何故今まで気が付かなかったのかという感じではあるが、中にいるときは慣れなのか、当然のようになって気にならないものなのだろう。
外を歩くときは常に人に会う想定をしていたように思う。もちろん約束なんてしていない。
最低限の服装と髪型と化粧を施して出掛けていた。
「東京じゃパジャマで外出られないよね」という会話を地元の千葉で聞いたことがある。
まだ東京に住んだことがない頃だったので、東京は人が多いしそういう所なのだろうというイメージが定着した。
いざ高円寺に住んだらパジャマやサンダル(しかも便所サンダルや100均のサンダルとか)の人や、独自のファッションを貫いている人が沢山いて、自分のしたい格好を周りの目を気にせずできるようになった。
地元にいたときは家族やバイト先の人や友達に突っ込まれるのが恥ずかしくて、遠慮している所はあったから。
人が多いからむしろ人の目が気にならなくなる、というのは東京の不思議だ。
色んな人がいるし、これだけ人がいたら自分のことなんか皆別に気にしないだろうと思える。
同じ東京でも特に高円寺はパジャマで出歩いている人が多い気がする。
自分の家から駅までの道が全部庭みたいには感じていた。
離れた今でもそんな感覚に陥る。
そんな庭(のような所)の中で偶然人に会う訳なのだが、嫌な気は全くしなかった。むしろ心地良かった。
「外に出ると必ずと言って良いほど知り合いに会う」という、本来では中々ないことを日常的なものとして自然に受け入れていた。
今思えば感覚が麻痺していたとは思う。
確かに別の街に住む人にこの話をすると「それ嫌じゃない?」とはよく言われた。
落ち着かないというのが当然の感想だろう。
でも考え直してみてもやっぱり嫌じゃなかった。
「売れた人は皆高円寺を離れる」という言い伝えは有名だが、これには理由があると聞いたことがある。
高円寺は狭い街だから、売れてからも居続けると沢山の人に話しかけられてゆっくり過ごせないんだと。
なるほど、と思った。
売れてないわたしですらこんなに人に会って挨拶を交わす。
更に知り合いではない人にも話しかけられるのだから、有名になった人は比じゃないだろう。
「高円寺にいたら売れない」説も、いたら売れないんじゃなくて、売れたらいられなくなるだけとその人は話していた。
確かにそれも一理ある。
ただ居心地の良さも要因ではあると思う。
人は居場所があると安心する。
音楽活動の資金を貯める為にバイトを増やしたミュージシャンが、バイトで頼りにされるようになって、音楽への意欲が下がったという話を聞いたことがある。
音楽以外の居場所が見付かったのだろう。
高円寺は許容が広い。色んな人を受け入れてくれる。
「自分はここにいて良いんだ」と思える場所。
わたしはすごく素敵なことだと思う。
自分の居場所は用意されているものではないから、自分で見付けなくてはいけない。または作らなくてはいけない。
ここが自分の居場所と感じられるのは幸せなことだ。
それが夢や目標がある人にとって甘えになってしまうこともあるのかもしれない。
甘えても良い。ずっと自分に鞭を打って生きるのは無理だ。
ただ居場所を支えにできたらいいなとは思う。
維持することも変化することも、なんとなくでは出来ず簡単ではない。
自分にとってどれが1番幸せなのか、考え続ける必要はある。
人生には
高円寺に行く回数と阿佐ヶ谷に行く回数が大体同じくらいになってきた。
目的地は阿佐ヶ谷なのに、いつも電車の「高円寺」のアナウンスに反応してしまう。
ぼーっとしていたらきっと降りている。
せっかく行くなら阿佐ヶ谷でご飯でも食べたいと思うのだが、阿佐ヶ谷のお店を全然知らないことに気が付いた。
高円寺から徒歩圏内なのに。
記憶に残っているのは男の晩ごはん、gion、そして富士そば。
iPhoneの写真フォルダ、撮影地で漁ってみたら奇跡的に男の晩ごはんに行ったときの写真が見付かった。
今は名前が阿佐ヶ谷ダイニングキッチンに変わってリニューアルしたみたい。

次は安定の富士そば。
高円寺の富士そばはわたしが住んでいた頃は富士山盛りがなくて、いつか食べるのが夢だった。
ドカ盛りってテンション上がるよね。
食べ切ると達成感というか清々しくて元気になる。
赤富士、お蕎麦にラー油を入れるのを定番にしてしまいそうなほど美味い。

シゲタさんがオススメしていた牡蠣ラーメンの無冠もすごく美味しかったな。
こんな上品なラーメン生み出されるんだな。

なんか飯テロみたいになってしまった。
自分自身がお腹減ってきた。
あれ、わたし意外と阿佐ヶ谷でご飯食べてるじゃん。
もっと昔まで遡れば他にも行ったお店がある。
高円寺の飲食店に行った回数が多すぎて、阿佐ヶ谷での食事の記憶が上書きされてしまっているだけかもしれない。
いつどこでもそうなんだけど、行ったことがあるお店ばかり行ってしまうのは何故だろう。
新しいお店に挑戦したいけど、中々踏み出せない。
1人で食事に行く場合は新しいお店は勇気がいる。
もし自分の好みじゃなかったら、と思い始めたらもう足止めだ。
行ったことがあるお店ってどんな感じか把握できているし、通っていると思い出もできる。
特別美味しいって思わなくても、なんとなく居やすいから行ってしまう。
そもそも食事ってどれだけ美味しい物を出されたとしても、緊迫した状況の中なら美味しく感じられない。
好きな人とご飯を食べると一層美味しく感じるとよく言うけど、心の安心感や解放感は食事を引き立てるんだろう。
この前高円寺の馬力に久しぶりに行ってチューハイを飲んだとき、全く同じ物を家で作っても何か物足りない気がするだろうなと思った。
カットレモンしか入っていないただのチューハイ。
家でも作れるけど、馬力と同じチューハイは作れる気がしない。
赤富士を真似して家でお蕎麦にラー油を入れて食べても、わたしはきっと富士そばでまた赤富士を頼む。
お店で食べるから、飲むから良いんだ。
原価が安い料理や飲み物も、お店で割高になっているのには色んな理由がある。
外食は以前より減ったけど、やっぱり飲食店は良い。
よく喋るマスターがいる高円寺のとんかつ屋、門一の店内の張り紙にいつもグッときている。

ライタープロフィール

のうじょうりえ
千葉県出身のシンガーソングライター、エッセイスト。
日々の悲しみや弱さや喜びの心象風景を「生きること」に視点を置いた文学的歌詞と言葉と共に、圧倒的なリアリティを持った美しい歌声とアコースティックサウンドで、自分自身と向き合う為の音楽を発表。年間でワンマンライブやサーキットフェスを含む200本近いライブ活動を行なう。
エッセイストとしても活動し、2022年より「ツブサ・スギナミ」にてコラムを連載中。
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