私と高円寺のことなど 第一回 影を踏んだ日

私と高円寺のことなど・コクテイル書房狩野俊 ライター記事

文・コクテイル書房 狩野俊

 高円寺との出会いは5歳の春、母親に連れられた初めての上京の時でした。
東北新幹線は開通していなかったのでその頃に、福島県の郡山市から東京に来るには、特急ひばりに乗って3時間半かかりました。東北の玄関口は東京駅ではなく、ああ上野駅。時は昭和52年のことです。

 母の弟(叔父)が高円寺のアパートに住んでいて、そこに身を寄せるため、夕闇迫る高円寺北口に二人は降り立ちました。ビル群は暗く、人の多さに慄き、とんだところに連れて来られた、という不安が胸に広がったのを覚えています。

 叔父のアパートは、風呂なし、炊事場とトイレが共同という、当時の田舎ではありえない設備の住まいで、カルチャーショックとともに記憶に刻まれています。我が家はとくに貧しい暮らしをしていたわけではなかったのですが、当時の母親にはホテルに泊まる、という発想がなかったのでしょう。高円寺の最初の印象はこんな感じです。

 高校生の時に、友人に会いに東京へ行くおりに、祖母から叔父がアパートの家賃を滞納しているので、これを大家さんに払ってくれと、お金の入った封筒とともに、住所が書かれた紙を渡されました。今思えば、高校生の孫にそんな用事を頼む祖母もどうかと思いますが、とくに嫌がることもなく、私はそれを引き受けました。二度目の高円寺です。

 大和町にあった叔父のアパートの大家さんを尋ね、封筒を渡すと、部屋に案内され、散乱する競馬新聞を見せられ「ばくちでなんとかしようと思って、かえってにっちもさっちも行かなくなったんだろうねえ」という言葉を他人事のように聞いていたのを思い出します。そのころの叔父は、テレビの製作事務所を辞め、自分で起こした広告代理店をつぶし、行方の知れない状況でした。

 彼はその後郡山に帰り、しばらくぶらぶらし、ある日、私の父親に「雀荘をやるのでお金を貸してください」と言って200万円出資させました。彼は、その金をつかむや、福島競馬場に直行し、二日間できれいに200万円を溶かしました。叔父は、横で全てを見ていたに私に「お前との相性が悪くて負けたな」と言い放ち、そのまま愛人がやっていたスナックに向かいました。ばくちはしない方が良い、自分でしたことの責任を他人になすりつけない。
身を持って知る、というのが最高の教育だと思うのは、この時の経験があるのかもしれません。今ではどこで何をしているのか、生死さえ知らない叔父ですが、人生で大事なことを彼から学んだのは確かなようです。論語の「吾以外皆吾師(われいがい、みな、わがし 自分以外はみんな先生という意味)」というのはこういうことなのでしょう。

 無意識への刷り込みは恐ろしいものです。進学のために上京し、住居を探す時に、私も母親もなぜか中央線沿線、それも高円寺を中心に探していました。先に東京に行っていた、その頃付き合っていた女性が初台に住んでいたので、その近くを探すのが10代の、サカリの付いたオスの行動のはずですが、自然の節理に反し、中央線の呪いにかけられたように、高円寺の周辺をうろついていました。

 東高円寺に住んだのは、不幸中の幸いだったかもしれません。高円寺という名前がついてはいましたが、主に丸の内線利用し、中央線は中野駅で乗り降りしていました。彼女がいたと書きましたが、実は二人いました。一人は初台、もう一人は八王子に住んでいました。かち合わせの危険を避けるため、初台の彼女とは新宿を中心に過ごし、八王子の娘とは吉祥寺あたりで遊び、二つの生活圏をつくり、二人とも部屋にはめったに寄せ付けませんでした。

 都合の良い関係が長く続かない、というのはこの時期に学びました。修羅場という言葉のすさまじさも、同時期に身体と心に入ってきたように思います。今ではすべて身から出た錆とわかりますが、本当の意味で悟ったのは、今から10年ちょっと前、妻と結婚し子供を授かったころでしょうか。

 寂しさが酒を呼びました。上京するまで酒には興味がなく、どちらかと言えば、両親の酒盛りを軽蔑さえしていたのに、孤独を紛らわすために、ビールを飲み、ワインに移り、やがてはウイスキーのような強いスピリッツを浴びるように飲み始めました。お酒のお供は最初は本で、文字が追えなくなると、近くのビデオレンタルの店に行き、頭を使わなくと観れる映画「男はつらいよ」シリーズや「ダイハード」などのアクション物を借りて、観ていました。
人間はすぐにダメになり、そしてそんな状態になっても、本人はなかなか気づけない、というのはこの時期の私を見ればわかります。また、ダメ男は簡単に捨てられる、ということも知りました。ライオンのオスは働かない、とうそぶいても、まともな女性は聞き入れてくれるはずもなく、聞いてもらえない言葉は独り言と同じで、独り言を言うくらい寂しいことはありません。

 失敗は繰り返さない、というのが生きる上で重要なことです。学びとは同じ過ちを繰り返さないことを言うのではないでしょうか。断言しますが、バカは同じ過ちを繰り返します、学びません。むしろ、過ちの繰り返しを誇りにさえ思ったりします。俺は無頼だから、俺は生き方変えないから。とか言って・・・。

 今思えば、あの頃の私は、いわゆる高円寺の人っぽく生きていたように思います。今も昔も高円寺という街が、いわゆるダメな人間を受け入れてきたのか、今の私は疑問に思っていますが、あの時の私はしっかりと高円寺に抱いてもらっていたのかもしれません。

 どうやってそんな状況を抜け出したのでしょうか。
次回は東京で酒を呑み始めたころのことから始めようと思います。



 次回は、6月中に更新予定です。

筆者プロフィール

コクテイル書房・狩野 俊

狩野 俊

1972年生まれ。
高円寺・コクテイル書房店主。
最近の目標は「嘘を言わない」
理由は言葉が弱くなるから。

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