今更だが、東京はキャパオーバーしていると感じる。
電車は人がパンパンだし、降りてもホームに人が溢れている。
その辺を歩いていると知り合いに会う。
本来なら偶然人に会う確率って低いと思うが、東京は人が密集しているからあり得ることなのか。
どこに行っても人、また人。
人が集まる場所は好きな方に入るけど、さすがに多すぎるのではないかと思う。
それだけ東京は便利なんだろう。
島国で小さな日本はそもそも狭いんだろうけど、東京にいると自ら狭い所に入りに行っている気がしてくる。
母親が以前はスマートフォンを使っていたのだが、今のスマートフォンの機能をどうしても理解できずに簡単な携帯に変えていた。
理解できないというのは良い言い方で、理解できないものが多すぎて最終的に母の不安になってしまったようだ。
この機能はなんだ、悪いものが入っているのではないか、と考えてしまうようになったと話していた。
わたしはiPhoneを使っているが、携帯を使う機会が多いわたしでも全く使っていない機能もアプリもある。
何を言っているか分からない専門用語、何の為にあるか分からないアプリなんて山程この携帯に入っている。全く理解はできてない。
でもそんなもんだろう、と思って過ごしている。
不安にはならず自分で納得して、安心と判断している。
不安な気持ちは誰でも持ち合わせている。
不安は自分や周りの人を守る為に必要なものだ。
不安を感じたとき、安全か危険かは自分で判断しなくてはいけない。
判断の仕方は知識だったり証拠だったり考え方だったり様々だ。
疑うにしても信じるにしても、何かしらで自分が納得して判断をしていく。
その中で、安全なのに理由もなくただ疑いすぎてしまうこともある。
「これは大丈夫」「この人は信用できる」と判断できれば良いけど、できない場合は本人も周りも辛い。
「悪魔の証明」という言葉がある。
存在しないことを証明するのは難しいという意味だ。
無実なのに疑われた人は、何もしていないから無実を証明できるものがない。
疑ってしまう側も納得できるものが得られないので、不安が残り責め続けてしまう。
失くした信用を取り戻すのが難しいように、不安になってしまった気持ちを安心に変えるのは大変だ。
例え疑う根拠のない思い込みだったとしても。
その場ですぐ解決できるような単純なものではなくなっている。
話せば分かる、気持ちを伝えれば何とかなる、とはいかないだろう。
綺麗事だけでは人は救えない。
そうなってしまったときの「これから」を変えていくには、他責にしているだけではいけない。
いくら自分以外のものがいけなかったとしても、全てを「あいつのせい」と不満を他に任せてしまったら前に進めない。
自分はこれからどうしていくべきかを考えるには、少しの自責の念が必要になる。
自分が納得しなければ不安は取り除けないから、納得できるように自分も動かなくてはいけない。
そもそも考え方も変えなくてはいけないのかもしれない。
そして不安に囚われて過ごすのは良いこととは言えない。
思い込んだり不安に囚われるのを未然に防ぐには、「起こってもいないことを考え過ぎない」に尽きるのではないかと思う。
不安に思うことがあったとき、自分で安心する術を見つけていくのも手だろう。
わたしは不安なとき、解決しなそうでも人に話しているかと思う。
あと補足だが、自責の念と言っても全てを自分のせいにしてはいけない。
そんなことをしたら人は持たないから。
問題が起こるときは原因があって、解決しないときはどちらかが100悪いという場合は意外とないと思っている。
自責の念はほんの少し備えているだけでいい。
世の中はどんどん便利になっていく。
便利が不安を掻き立てる。
便利はなんて不自由なんだと母を見て思った。
きっと母だけじゃない。携帯のことだけじゃない。
便利にするのは不自由を減らす為なのに、不自由が増えている。
すなわち自由を奪うことにならないか。
それなら自由になろうとして、自由に囚われすぎたら不自由に当たるのか。
「自由になる」と強く願う気持ちがわがままになったら、巻き込まれた人は不自由だ。
「自由になる」がテーマになって、本当の自分の気持ちを置いてきてしまったら不自由だ。
こんな答えの出ないことまで考えてしまった。起きてもいない問題を考え過ぎるのはやっぱり良くない。
携帯に対して「人間がこんなに夢中になるなんてきっといいものだ」と思っていそうな家の猫の写真を置いておこう。
果たして良いものなのかね。

目に見えない美しさ
日曜日の総武線に乗り、阿佐ヶ谷のライブハウスに向かう。
土日祝日の中央線は阿佐ヶ谷に停まらない。
中央線は新宿〜中野間をすっ飛ばすので、総武線に乗るとなんだか遠回りしている気分になる。
今日が平日なら、、と何度思っただろう。
そんなやるせない気分で電車に揺られながら、途中の高円寺駅を見下ろす。
そうか、この線路は高い所にあるから見下ろす形になるんだ。
高所恐怖症なのに何故かあまり怖くない。
南口の大将、毎年咲く広場のツツジ、4丁目カフェ、その横にとうとうできたスターバックス。
ぱっと見た感じでも、すごく栄えていたり整えられて綺麗にされたようには思えない街だ。
それなのにすごく美しいと思った。

そもそも美しいと感じるのは何故だろう。
わたしが高円寺に住んで中身を知ったからだろうか。
ぱっと見た印象だけでなく、住んでみて知ったこと見えるようになったことが沢山ある。
愛着が湧くと見た目までどんどん好きになっていく、というのはよくあることだ。
わたしの身近な話だと、3月から飼い始めた保護猫の顔がどんどん可愛いくなっている気がする。
もちろん顔で選んだ訳ではないので、保護施設にいたときは顔を全然気にしていなくて、そのせいもあるかもしれないけど「こんなに可愛かったっけ、、?」という感じ。
親バカと言われればそれまでだが、やはりどう見ても顔付きが変わってきている。
尖りがなくなったというか。
路上ライブをやっていたとき犬がよく来てくれたが、可愛いと言われ過ぎて自分の名前を「可愛い」と思っている子もいれば、拍手したら自分が褒められていると勘違いして喜んでいる子もいた。
どの子も大切にされていて朗らかな顔をしていたな。
街は人に愛されたからと言って見た目が変わることはないが、その街に住む人達によって様子は変わる。
選んで住んでいる訳だから、街を好きな人の方が多いだろう。
元々が好きなら街を保とうとするのは自然なことだ。
わたしも高円寺に住んでいるときそうだった。
しかし街の全てを愛せる人は限られる。
住みやすく便利になってくれたら尚良いと思うのも自然だ。
色んな人が集まった街は姿を変えようとしたり、保とうとしたり。
そのせめぎ合いだけでも街は姿を変える。
やはり見た目には「中身」が影響してくるんじゃないだろうか。
人が生きてきた道は美しい、とわたしは思う。
一朝一夕では作り上げられない軌跡。
同じものは1つもない。
誰にも、自分でも語り尽くすことのできないほどの重みがある。
人ひとりでもこんなにも美しいのに、人が沢山集まった街はどれほどになるだろう。
と思ったら、街を美しいと思うこと、ましてやそれが自分の好きな街であれば尚更美しいと思うのもおかしくない。
きっとこれがわたしにとっての「美しい街」の形だ。
ところでこれも今更なんだが、中央線はよく2、3分当たり前のように遅れてくる。
まるで5分以内は遅刻に入らないと思っているわたしのように。
ライタープロフィール

のうじょうりえ
千葉県出身のシンガーソングライター、エッセイスト。
日々の悲しみや弱さや喜びの心象風景を「生きること」に視点を置いた文学的歌詞と言葉と共に、圧倒的なリアリティを持った美しい歌声とアコースティックサウンドで、自分自身と向き合う為の音楽を発表。年間でワンマンライブやサーキットフェスを含む200本近いライブ活動を行なう。
エッセイストとしても活動し、2022年より「ツブサ・スギナミ」にてコラムを連載中。
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