芸人・伽説いわし 連載:スギナミのど真ん中で大の字#05「弾きたいから弾く」

にぼしいわし・伽説(ときどき)いわし【お笑い芸人】

大人には、「本当はやりたかったこと」がある。

今やっていることとは別のことで、やりたかったことをやらないまま抱えて生きている。

世界一周したいとか、バンドを組みたいとか、お店を開きたいとか。

でも、それに挑戦することのないまま、おそらくこの先もしないまま人生を終えるのだ。

 とはいっても、こんな人生もそれはそれでいいと思っているのではないだろうか。私はそう思っている。今の生活もわりと楽しいし、なんとか食っていけている。強いて言えばやってみたいけれど、リスクを背負って今の生活を崩してしまうのならばやらない方が結果幸せだろうと判断する。周りに迷惑をかけるのも嫌だから。

 「やらない後悔よりやって後悔の方がいい!」って言われたってまあ、挑戦をする姿勢が大切なのは痛いほど知っている。今実際にこれをやっておけばよかったとか、やりたかったとか後悔しているから。でも年齢も年齢だし、新しいことに挑戦するには億劫なのだ。とかいうと「何かを始めるのに年齢なんて関係ない!」と正しさで殴られる。正しさは眩しい。眩しさで目がチカチカして痛い。でも今の生活は今の生活でもっと集中しないといけないことがあって、お金もないし、時間もないし、私にはできっこないなと思う。そんなことを答えると「できないって最初から決めつけるな!」とまた正しさで殴られる。やめてやめて。そっとしておいて。

 なぜやりたいことがあるのに挑戦しないか。それはお金でも時間でも家庭環境でもない。

 もし失敗してしまったら、今の薄っぺらい人生がもっと薄っぺらくなるのが怖いのだ。

 満足いってない人生を歩んでいる。子供の頃はもっともっとかっこいい大人になっていると思っていた。社会に貢献できていて、親孝行できていて、子供も生まれていて、車持ってて、マイホームがあって。でも今は全部できていない。一度芸人を辞めた後、もう一度芸人として戻ってこなかったら、私の憧れの人生が歩めていたかもしれない。でも芸人をしなかったら、芸人をやりたかったなって思うのだろうか。どうだろう。思わない気がする。メタ認知能力が弱すぎるかもしれない。でも芸人の大変さを思い知ったから、思わない気がする。腹決めて芸人をやり続けるのならば、もう一生憧れている人生にはならない。かといって、今芸人を辞めても多分憧れの人生は歩めない。手遅れ。これがやった後悔。

 今、私の人生はかなり薄っぺらい。これをやった、これができた。誇れるものがない。骨まで溶けるような燃える結果を残してない。

 でも、人間というのはどうしたって自分の人生を肯定しようと動いてしまう。私も、この人生を肯定しようと必死だ。芸人をやって確かに後悔する部分はあった。でもその分スリリングな人生を歩めているんじゃない?普通なら会えない人に会えて、行けないところに行けて、経験できないことをできているんじゃない?泣き顔の誰かを笑顔にできたんじゃない?何よりも自分が楽しかったんじゃない?と心の中にテレビでよく見るような陽気なブロンドヘアでタンクトップを着ている外国人を住まわせる。もちろん素の私が邪魔してくるけれど、そんな奴はでかい布団で寝かしておいて、いつかの誰かに言われた「やらない後悔よりやって後悔の方がいい!」を純度100%でやってのけようと考える夜もある。

 ちなみに私は音楽が好きだった。小学校のときは音楽の先生になりたいと言ってたし、ピアノも習っていた。ピアノの涼やかな音色も、ペダルを踏むとダイナミックに響き渡って背筋が震えるのも大好きだった。6歳のとき、家族に買ってもらったおもちゃのピアノで両手で違う動きができなくて、悔しくてピアノ教室に通わせてくれと両親に直談判した。

 でも、今思えばピアノが私の人生の最初の挫折だった。どれだけ練習してもそれなりにはなったけど、あんまりうまくならなかった。楽譜もあんまり読めなくて、休符がどれくらい休めばいいかあんまり掴めなかった。その時はまだこんなに人生に悲観的じゃなかったから、たくさん練習してちょっとずつうまくなってくる自分に自信を持ったりしていた。ただ、どうしてもクラシックが弾けなくて、私には才能がなかったと気がついたとき、とうとう努力すらもやめてしまった。

 でもクラシックがちゃんと弾けたときに、ご褒美代わりにJPOPを弾かせてもらうのはずっと楽しかった。初めて『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』を弾いた時、いつも聞いている音楽が、自分の手によって奏でられているあの感動は忘れられない。

 今でもSNSでJPOPをかっこよく弾いている人を見て、こうなりたかったな~と思う。

 もう一度ピアノを弾きたいなと思った。そんなことするなら、ネタの一本でも考えろよって思ったけど、そんなこと言ってる奴は実はいなかった。私は私の人生を肯定することを優先しよう。売れてない芸人だって、今日くらい、今したいことをしてもいいはず。

 でも、教室に通うのは違う。弱い私はまた諦めてしまうかもしれないから。誰かに見られないようにこっそりピアノを思う存分弾きたい。

 高円寺はバンドマンの街だ。駅の北口に「スタジオコヤーマ」というスタジオがあり、本店とR店がある。バンドのスタジオだが、ピアノが置いてある部屋もある。R店の方は完全無人営業でネット予約ができ、空いている時間に練習しやすい。誰も見ていないから下手くそでもいい。予約はやめておこうという理由がとことん排除されていて、私は予約するしかなかった。

 スタジオにはアップライトピアノがポツンとあった。私はこの1時間このピアノを独り占めできるのか、と思うと、ワクワクする気持ちが湧いてきた。私にもまだこの気持ちがあったのかと驚く。『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』は途中まで辿々しく弾けた。思い出しながらちょっとずつ弾けていく感覚が楽しい。あっという間の1時間。久しぶりの「やりたいからやる」という気持ちに従順で単純な行動。

 もうちょっと色々練習してみようかな。あのスタジオ、簡単に予約できるようにしてくれてるから。

edit & photo:伊藤夏希

にぼしいわし・伽説(ときどき)いわし


にぼしいわし・伽説(ときどき)いわし

1992年、大阪府出身。お笑い芸人「にぼしいわし」のツッコミ、ネタづくり担当。
2023年に拠点を東京に移し、個人事務所である「株式会社 A-dashi」を設立して活動中。
女芸人No.1決定戦 THE W 2024年大会にて第8代目女王となった。
また2025年12月に自身初となる著書『しょぼくれおかたづけ』をKADOKAWAより発売。

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